Artラボ~奥能登「珠洲」のいま~ヤッサ―プロジェクト活動報告

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2024年1月1日、石川県能登半島一帯を中心に発生した「令和6年能登半島地震」は、日本海沿岸への広範囲の津波と、奥能登地域を中心にした土砂災害や火災、家屋の倒壊、交通網の寸断など、甚大な被害をもたらしました。奥能登国際芸術祭の開催地でもある石川県珠洲市の被害も大きく、元旦の地震に加え9月の奥能登豪雨で二重の被害を受けました。被災から1年が経過し、いま珠洲はどうなっているのかと心配する声も多かったことから、Artラボでの報告会を開催。さまざまな復興支援と現地との橋渡しに尽力されているアートフロントギャラリーの関口正洋さんに震災後の珠洲と、復興につなぐ「奥能登珠洲ヤッサ―プロジェクト」についてお話しいただきました。

Artラボでの関口氏による説明の様子

能登半島地震の特徴

能登を大地震と津波が襲う

関口正洋氏――2024年1月1日の地震から1年以上が経過しましたが、これまでに、どんなことをやってきて、今現地はどんな状況なのかを話させていただきます。

阪神淡路大震災、中越大震災、東日本大震災、熊本地震など、日本は地震が頻発していますが、今回の能登半島地震は復興の歩みが遅いといわれています。
これには色々な理由がありますが、その1つは、半島の先端の地震であることが非常に大きくアクセスしにくい点です。

能登半島の外浦は崖です。
大陸から何万年もかけて動いてきた地面が地殻変動で隆起してできたと言われています。

ここは昔みんな海の底で、藻類の一種で珪藻の化石である珪藻土が多く含まれていると言われ、能登半島の4分の3が珪藻土だと言う方もいます。
だから地盤も弱く、崩れやすい。
珠洲は半島の先端ですから、沿岸線が崖崩れで通行できなくなると陸の孤島になります。

発災直後の被害状況 土砂崩れ

地割れ、陥没(大谷地区)

発災直後は、このようにあちこちが通行できなくなりました。

この富山湾岸は内浦と言って、波が静かなので、みんな家を海岸ギリギリまで建てていました。
今回の地震では、こちら側に津波が来て、海から直接波が押し寄せたのと、川を上って波が来た箇所もあって、建物や車がたくさん流されました。

津波被害(宝立地区)

能登半島地震のもう1つの特徴は、断層がずれて地面が隆起したという点です。
能登半島の成り立ちそのものと関係していると言えます。

海岸が白くなっているのは、全部、海から上がってきた部分です。
大きいところは5mぐらい隆起し、外浦側にも実は津波が来たらしいんですが、この隆起した部分で止めたんじゃないかと言われています。

海岸線隆起による風景の変化
隆起する前

隆起後

「奥能登珠洲ヤッサ―プロジェクト」の始動

僕たちも珠洲の芸術祭に10年近く関わってきましたので、いろんな方から珠洲のためにできることはないかというお話をいただきました。
それはアーティスト、企業の人たち、芸術祭を見に来てくれたお客さんなどです。

募金などで支援をしたいという声がたくさんあったので、その受け皿として、「奥能登珠洲ヤッサ―プロジェクト」を立ち上げ、震災直後から今も活動しています。

「ヤッサー」は繁栄を願う「弥栄いやさか」を意味する、珠洲の祭りでの掛け声です。
地元の人たちが楽しみにしているお祭りが再びできるようにしたい
そんな願いも込められています。

震災後の活動

文化芸術を通してコミュニティ再建をお手伝いしよう、珠洲に心を寄せる人の思いを復興につなげよう、といったことが活動の基本になっています。
ここに至るまでの1年間は、大きく3期のステージに分かれます。

第1期ー混乱期の現地

発災直後の1月から3月は、道路が機能しない、現地の移動もままならない状況です。
建物も3分の1が全壊、3分の1が半壊で、住居の半分近くが使えなくなっている。
この状況下で、まず現地の拠点整備が必要で、僕らも行ったはいいがどこに泊まるんだというところから始まります。

僕が発災後最初に行ったのが1月13日。

2024年1月13日に能登空港に貼られていた道路状況。
赤線は被害が大きい道路

ほとんどが通れないという道路状況が能登空港に貼ってあって、1番先端が珠洲ですから、この地図を写真に撮ってそれを見ながらやっと辿り着いたという感じです。
旅館などもやってなく、宿舎にしていた場所も使えないので、元々芸術祭の事務所だった旧消防署の2階に寝泊まりするんですが、ここも津波の被害を受けていて片付けが必要でした。
冬にテントで寝泊まりですから、朝方などは寒さで目が覚めました。

活動拠点である旧消防署

芸術祭事務局も津波の被害を受けた

そして、現地を回っては芸術祭の作品や施設等を点検して応急手当てをする
また、現地の非営利法人サポートスズのスタッフが芸術祭とともに動いていたのですが、活動を停止していたのでどうするか。
それと、経済同友会を含め外部の団体から支援の申し出をいただいたので、現地とコーディネートするような活動を1月から3月にかけてやっていました。

支援が遅れ孤立する珠洲

発災直後1月、新聞では、水が足りない、薬が欲しいといった物資不足が報じられていました。
珠洲はまだ孤立しているところもありました
のと里山海道など能登へ通じる道路が全部通行止めで、「能登へは来ないで」というキャンペーンが張られていました。
現地で二次災害にあったりすると、自衛隊の救助や補給に影響が出ます。

従来、飛行機での移動がメインだったんですが、週3回運行したのが発災から3週間目。
それまで外からの人の出入りもかなり制限されていました。

2月ぐらいになると倒壊した建物の調査が進んでいくのですが、家屋撤去に12年かかるという報道が出ました。
震災で出たゴミの量でいうと、平常時の130年分
プレハブの仮設住宅が完成しましたが、まだ300戸止まりで、全体で8,000戸申請していますから、ほとんどの人が仮設住宅に移れない
2か月経ってもそんな状況のなか、体育館などの避難所でみんな暮らしていました。

3月ぐらいになると、一部の方は加賀や富山などに避難したんです。
でも、今度、新幹線が延伸するので出ていかなきゃいけないなど、観光と支援、どうやって両立させるのかという問題がありました。

ようやく水が復旧したのが3月10日ぐらいですが、それでも9割以上はまだ見通しが立たないという状況で、ほとんどが給水車による生活です。
3か月経ってもこの生活を強いられる人が、2次避難含めて8,000人。
生活再建の遅れが指摘されています。

「潮騒レストラン」片付けの様子

その他、外浦の「潮騒レストラン」の厨房はこんな感じで、地道な片付けをしていました。
民具がいっぱいあった「すずシアターミュージアム」は、地割れと崖崩れで窓ガラスが割れてしまったので応急的に窓を塞ぐなどをアーティストと一緒にやりました。
ここに展示してある民具などの収蔵物も、国立歴史民俗博物館の研究員の人たちと一緒に破損がないかなどの調査をやっています。

民具の調査

校庭に遊具があったんですけど、地滑りで、崖の下に立ったまま落ちていました。


他の作品なども、避難所として使われているところもありました。

先述した「サポートスズ」は、芸術祭がストップすると収入源がなくなります。
スタッフのほとんどが芸術祭をきっかけに移住してきた移住者なので、実家など足場になるところも珠洲にはない。
そんな折、芸術祭繋がりもあって新潟の十日町で出向の受け入れをしてくれて、雇用の維持をはかりました。

▶次のページでは、少しづつ復旧が進み明るい兆しが見え始めた珠洲の様子と、その後奥能登に襲来した豪雨の被害についてお話くださいます。

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関口正洋
株式会社アートフロントギャラリー

投稿者プロフィール
1974年神奈川県生まれ。
金融会社勤務を経て、1999年にアートフロントギャラリー入社、大地の芸術祭参画。
2003年から越後妻有のマネージャーとして文化施設の企画および運営に携わり、文化・芸術を活かした地域づくり組織NPO法人越後妻有里山協働機構を立ち上げる。
2015年から奥能登国際芸術祭プロジェクトマネージャー。

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