ロジックが導くメガフランチャイジー成功への道(前編)
- 2022/3/4
- インタビュー
創業18年目を迎える株式会社リックプレイスは、メガフランチャイジーとしてさまざまな業種業態のFC本部33社に加盟し、現在17都道府県に133店舗を展開されていらっしゃいます。花形営業マンからパチンコ店店長への転身を経て、新規事業の開拓や社内起業の中でフランチャイズと出会い、フランチャイズ1本で独立への道筋を見出された代表取締役の石塚信司さん。試行錯誤の中で、メガフランチャイジーとして事業を確立された石塚さんのご経験と経営に対する考え方は、FC事業を目指す方の参考になるものでしょう。インタビュアーは、フランチャイズ専門誌「ビジネスチャンス」編集長 中村裕幸氏です。
経営者としての原点は父との思い出
中村裕幸氏(以下、中村氏)――石塚さんが経営者を目指したきっかけは、社長をしていたお父様の影響だと伺いました。
石塚信司氏(以下、石塚氏)――実は、僕はいわゆる2号の子だったので、親父が実家に帰ってくることが多くありませんでした。
それでも、家族サービス的な感じで年に1,2回帰って来た時には、大きなホテルに連れて行ってくれるわけです。
そこにはボーリング場やゲームセンター、プールや遊園地なども併設されていて、レストランで食べるご飯も美味しくて、とにかくみんな楽しそうにしていたのです。
親父が帰ってきてくれたことの喜び、そしてその時にだけ味わえる非日常の空間が非常に楽しくて、そんな楽しさ溢れる世界を作れたら面白いなと思ったのです。
中村氏――経営者の原点はそこから来ていたんですね。
石塚氏――一方で僕は父親の会社を継げるわけではないので、「本家に負けねえぞ!」といったハングリーさというか、バネはすごく強かったと思います。
エリート営業マンからの転身
中村氏――新卒で入社した会社は警備会社のセコムですね。なぜこの会社にしたのですか。
石塚氏――私が入社した1987年は、1人の学生が10社から内定をもらうような時代でした。
私もたくさんの内定をいただいていたのですが、親父が「お前、社長やるんだったら完全歩合の営業会社でやった方がいい」と。
セコムを選んだのはそこでした。
当時はバブル期でビルがバンバン建ち、警備の仕事も増えていたのです。
ただ入社後に知ったのが、セコムは営業がめちゃくちゃ厳しくて新卒は営業に回されないということです。
中村氏――それでは、営業職には就けなかったのですか。
石塚氏――それが運良く営業に回していただきました。
きっかけは当時、セコムが社内でアメリカ留学生を募集していて、それに応募したことです。
英語論文を提出した上で面談やディベートを何度も行い、最終的に創業者(現:取締役最高顧問)の飯田亮さんと面談させていただくことができました。
その時に、「石塚、お前は営業をやれ」と。
結局、僕らの年は同期が200名いたのですが、アメリカに留学できたのが4名で、その内営業は私ともう1人だけでした。
中村氏――いわゆるエリートコースだったと思いますが、その後わずか3年で会社を退職されてしまいますね。
石塚氏――営業を極めたかったので、仕事自体はすごくやりがいもあり、それなりに成果も出していました。
ただホテル経営がしたいと言っていたぐらいですから、ちょっと別の世界も見てみたいと思うようになったのです。
セコムで培ったBtoBの営業は何となく分かったので、次はBtoCにいこうと。
その時、たまたま声を掛けてくださったのが、中央遊技場(現:セントラックス)の山田欣一専務(現:社長)でした。
▶大手企業のエリートコースを自ら抜け出た石塚さん。次のページでは、心機一転、新規事業立ち上げへの挑戦を試みます。