ロジックが導くメガフランチャイジー成功への道(前編)
- 2022/3/4
- インタビュー
新天地での新たな挑戦
中村氏――前職で顧客として開拓した取引先であり、都内でパチンコホールを複数運営する中央遊技場に転職されたということですが、決め手は何だったのですか。
石塚氏――将来的にホテル経営をしたいと考えていましたが、なかでも僕はカジノをやりたかった。
ただ日本ではカジノはできそうにないので、同じアミューズメントのパチンコならそれに近いし、面白い。
勉強になると思ったのです。
ただ入社後は大変でした。
店長として日中働き、23時に閉店してからは毎日釘師として2~3時間台の調整をする。
台の入れ替えの時なんかは朝までやっているわけです。
努力の大切さを身に染みるほど十分に学びました(笑)。
中村氏――ただその生活も10年が過ぎて解放というか(笑)、新たなミッションを課せられるわけですね。
石塚氏――今思うと、社長も「石塚をパチンコ屋の店長にしておくだけではもったいない」と思ってくれたのだと思います。
その時に初めて、「お前、新規事業を探してこい」と。
新規事業は既存のリソースで展開
中村氏――それがフランチャイズとの出会いだったのですか。
石塚氏――いえ、最初はフランチャイズに限定していたわけではなく、僕の友達が経営している個店の焼き鳥屋さんや居酒屋に話を聞きにいったりしながら、情報収集をしていました。
でも聞けば聞くほど、彼らがやっているような事業はうちでは難しいと思うようになったのです。
中村氏――それはなぜですか。
石塚氏――私が考えた新規事業は、そのために社員を雇うというものではなく、今いるパチンコ店の人材をジョブローテーション的に活用したいというものでした。
ただそう考えた時に、私の友人がやっているような自社業態を彼らができるかというと…。
私も友人らと話をして、「確かにあいつは昔から飯が好きで器用だったなぁ」と思い出しましたし、そんな自身を生かせる道を知った人でも大変だと言っているわけですから。
それをゼロからやっていくのは厳しいと思い、フランチャイズを探すことにしたのです。
中村氏――なぜ社内の人材活用にこだわったのですか。
石塚氏――パチンコの仕事は大変ですし、やりがいも感じづらい。
だからこそ、新規事業を通じてやりがいを持ってもらい、今いる人材を離職させないようにしたかったのです。
なぜやりがいが持てないかというと、パチンコ屋というのは社員に売上・利益を一切公開しないからです。
知っているのは店長だけで、ナンバー2といっても1つの列の機種を扱う程度です。
そうなると面白味には限界ができてしまうのです。
順調に滑り出したフランチャイズ初出店
中村氏――そして2000年8月に、念願のフランチャイズとしてオープンさせたのが「牛角」ですね。
石塚氏――外食以外にサービス業なども見ましたが、候補には全く挙がりませんでした。
というのは、元々新規事業に就かせる社員が決まっており、彼らが最初にやりたいと言ったのが飲食だったからです。
それで飲食だったら何にするかとなった時に、牛角だねと。
牛角については説明会や店舗視察も行ったのですが、もうインスピレーションに近いものがありました。
中村氏――出店初月から月商1800万円を記録し、大ブレイクされましたね。
石塚氏――牛角はロジック的に勝つべくして勝ちました。
肉の質も良く、店舗の雰囲気もジャズが流れたお洒落な内容で、接客もダウンサービスといってひざまずいて接客するんです。
それまでの焼肉屋は、肉も漬けダレみたいなものに漬けた肉で、店内も煙がモクモクしているし、店員もちょっと横柄なところがあった(笑)。
当時教育を受けたのは、まずは従来の焼肉屋の姿を変革し、食材と店舗の雰囲気、接客サービスそれぞれの客単価を1,000円分に強化するというもの。
それが実現すれば、その三本柱で客単価3,000円をいただけるというものでした。
1号店目から火を噴いた牛角ブランドは、最盛期で7店舗となりました。
ただその一方で、他の外食ブランドは牛角ほどのインパクトはなく、20店舗ほどを運営していましたが苦労も多かったといいます。
そこにきて、本業のパチンコ店にも向かい風が吹いていたのです。
当時専務と外食事業部長を兼務していた石塚氏は、本業と新規事業の立て直しに奔走しながら、改めて自身を見つめ直すことになるのです。
後編では、石塚さんが独立・創業後どのようにして、メガフランチャイジーとして様々な事業を展開していったのかを語っていただいています。お楽しみに!
出典:ビジネスチャンス 2021年12月号「メガフランチャイジー 半世紀」
この記事は著者に一部加筆修正の了承を得た上で掲載しております。
※写真はすべて石塚氏ご本人より提供されたものです。