コロナ禍を通して見えた地方創生と農業への期待感
- 2021/4/19
- インタビュー
日本は少子高齢化が急速に進行し、人口減少社会が様々な制度に変革を迫っています。読売広告社相談役の中田安則さんは、多様で変化が激しい時代において、長きに亘り広告業界の向上・発展に寄与してこられました。日本のビジネスを地方から創造する地方創生プロデュース会社THE COへの参加を機に、コロナ禍収束後の姿、地方創生における農業への期待について伺いました。
顧客に長く向き合い、時代の要請に応えてきた
Z-EN— 大学生のころは学生運動が盛んでしたが、就職活動に影響しませんでしたか?
中田安則氏(以下、中田氏)-学生運動は、大学に入学したときに始まりましたよ。*
1年生の秋に大きな封鎖をやって、2年生の途中ぐらいまで休校でした。
それより、映画研究会の合宿で千葉の岩井海岸に行っていたとき、母から「よど号事件をテレビで報道していて、中田って名前でていたけどお前じゃないよね」って電話がかかってきました。
「いや、私はここに居ますから」って答えてね、よど号事件のほうが影響あったかもしれません(笑)。
就職活動のときは複数の会社から内定をもらいましたが、父の勧めもあって読売広告社に入社を決めました。
— 入社されてから、どのような仕事に携わりましたか?
中田氏-読売広告社は当時、新聞の案内広告という、人の募集をやる広告を中心にやっていました。
私は、入社して4年目ぐらいから大手不動産会社を担当しまして、それを社長になる直前までやっていました。
不動産関連事業は、会社独自の強みになったと思います。
— 開発プロジェクトなどは長期に及びますが、どれくらいの期間関わるのですか?
中田氏-一番長かったのは横浜の都市開発事業で、区画整理から始まって最終的に18年関わりました。
提案書はプレゼンですから、エージェンシーが作った方がお客様に説明しやすいのです。
結局、更地から始まって、お客様に渡した後の管理まで関わることになります。
強みをつくり、多様で変化の激しい時代を乗り越える
— 社長のご経験が長いですね
中田氏-私は取締役の期間が短くて、社長を9年間務めました。
平取が1年、常務が1年、社長が9年、会長が2年です。
執行役員は2年しかやっていません。
13年の役員生活の中には、リーマンショックや東日災大震災がありました。
— 広告業界にとっても大変な時期ではありませんでしたか?
中田氏-生活者のメディア環境が多様化して、コンサル会社から商社まで、競合がどんどん増えています。
我々は、デジタル広告ビジネスの統合的な展開を図る会社を設立するなどして、多様で変化の激しいインターネット時代での足場を強化していきました。
— THE COに監査役として参画されますが。
中田氏-不動産関連の事業に長く関わってきた経験からいうと、街づくりに関しては、その地方の基本構造を変えたら駄目ですね。
ローカライズは地域の特性に応じたもののみにすることです。
THE COの基本モデルは生活者の衣食住を中心に据えていて、単なるエリアマーケティングにとどまらず、商業施設のプロデュースまで提案できるようなメンバーで構成されているところが期待できますね。
コロナ禍でテレワーク、リモートワークが定着して地方に移住する人が増えるという話を聞きますが、企業が研究所を地方に造り、東京と同じ給料で現地の人を雇用するくらいしないと分散化したとは言えないでしょう。
ベッドタウンの延長には地方創生はないと思います。
▶中田さんの多彩なご経歴が地方創生のプロデュースにどのように生かされるのか。次のページでお届けします!