職人技を伝承する老舗企業を承継!経営理念を貫くための変革とは(前編)
- 2022/2/14
- インタビュー
目次
2代目後継者としての船出
――素晴らしい製造技術をお持ちなのですね。大塚さんはその事業を承継されたわけですが、初めから家業を継ぐつもりでいたのですか。
大塚氏――そうですね。
長男ですから、いつか家業を継ぐことは意識していました。
しかし、30歳になるまでは自由にさせてくれと父に言って、自由気ままに旅行会社でサラリーマン生活をしていましたね。
学生の頃からさまざまなイベントや旅行ツアーの企画に関わり、人と人との出会いに面白さを感じていました。
当時は、インターネットも普及していない時代。
ツアーや旅行の手配を通じて個人情報を集められるのではないかという発想がありました。
いろいろな人たちの好みを把握することで会員制の情報提供サービスを行い、新婚旅行から子供の出産、内祝い、家族の記念日など、その人の過ごしている地域を巻き込み、さまざまな場面において情報提供できるコンシェルジュサービス的な仕事ができるのではないかと考えるようになりました。
旅行会社へ入社した理由も、旅行業の資格を取得して家業を継がずにそのまま逃げてしまおうとたくらんだからです(笑)
――家業を継がないこともお考えだったのですね。承継されたきっかけは何だったのでしょうか?
大塚氏――就職して2年後に父が倒れてしまったからです。
まだ時期的には早いけれども帰ってこないかと言われて、旅行会社での業務は楽しかったのですが、いずれは継ぐのだからと、まずは栃木の工場で働き始めました。
その1年後に阪神大震災が起こりましたので、困っている関西で何かできないかと、今度は大阪営業所で営業活動を行いました。
――入社後からどれくらいで承継されたのですか?古参のスタッフたちとの軋轢はありませんでしたか?
大塚氏――入社から15年目の2009年に代表取締役に就任しました。
社員たちとの関係は良好でした。
工場や営業所勤務から始めて、製造や営業の現場のことも学びましたからね。
また、社員の方々や取引先銀行の人たちとは、私が入社する前から顔見知りだったんです。
というのも、中学生くらいまで、学校から帰る先は自宅ではなく会社でしたし、父の仕事関係の人たちは自宅にも遊びに来てくれて親しくお付き合いしていましたから、一緒にご飯を食べたり花火大会を見に行ったりしていました。
高邁な理想に燃える経営者のジレンマ
――代表に就任されてから、どのようなことで苦労しましたか。
大塚氏――経営者としての知識をまったく持たないまま社長になったにもかかわらず、ビジョンが大切だと4つの高邁な目標を打ち立ててしまったのです。
これをどう実現するかに1番苦労しました。
第一は、事業領域を水に特化して、環境問題から飲料水までに関われる会社にすること。
それは今後、水の問題が広範に社会問題化して大きくなると思ったからです。
環境問題から派生する飲料水の問題の一つである水不足を解消するために、リサイクルウォーターの必要性(再生水の活用)が今後ますます高まると考えています。
第二は、ろ過の仕事をしていますから、既存技術の延長線上でエネルギーをつくり出すこと。
実際にいまも筑波大学の藻類からオイルを抽出するという研究のお手伝いをさせていただいています。
第三は、食料問題に取り組むこと。
今後の世界人口増加などを考えた場合、食料不足になる可能性が懸念されます。
そこで、水耕栽培により作付面積を増やせないかと検討しています。
水耕栽培で根菜類を作ってみたいですね。
第四は、少子化の問題に取り組むこと。
これについては、しっかりした会社をつくれば、社員も安心して結婚するだろうし、子どももつくるだろうと考えて、とにかく社員が安心して生活できる会社をつくろうと考えました。
これら4つを目標に掲げて、社長として頑張ろうと思ったのですが、どうも目標だけが上滑りしている感もありました。
こんなに小さな会社で一体何ができるんだという想いもあり、ジレンマに悩まされていたのでしょう。
――ジレンマは乗り超えられたのでしょうか。
大塚氏――もがき苦しんでいるときに、株式会社フォーバルの創業者でいらっしゃる大久保会長の講演を聴いたのです。
地球益とか社中分配のお話ですが、まさに私の思いをわかりやすく、熱く語られている姿に接して、もうこれしかないという気持ちになって、公益資本主義推進協議会に入会させてもらいました。
▶高い志を実現していくためにジレンマに苦しんだ大塚さんが辿り着いた経営者としての姿勢とはどのようなものか。次のページでお話いただきます!