ピアノ事業を承継するまでの経歴
――福田さんは、2代目を継承するお考えを以前からお持ちだったのですか?
福田氏――全然思っていませんでした。
でも小学校2年時くらいから経営者になるのが夢で、卒業文集にも、将来は自分の会社を作って全国に支店を持つと地図入りで書いていましたね(笑)
でも、大学は経営学部にはいかないんです。
理系に進んで幅を広げ、若いうちにスポーツをやろうと筑波大学に進学しました。
――お若い時から人生に戦略がありますね!
福田氏――そうですね。理系学部でも未知数でより可能性があると思った生物学科を選択しました。
それから、時代の読みのなかでコンピューターが間違いなく世界のインフラになるだろうと、プログラミングは高校時代からやっていましたね。
――筑波大学での生物学科では、なにを研究されていたのですか?
福田氏――環境生態学で、進化論も密接に関わります。
エコシステムとかエコロジーの学問です。
経営に関わるようになって分かったことですが、エコロジーの考え方はエコノミーの世界と根本的に同じで、そのまま使えるということです。
今は投資の世界でも、エコシステムなんて言われるようになりましたが、昔から進化に必要なものは同じなんですね。
――陸上競技もされていらっしゃるとか?
福田氏――高校から始めて、今もやっています。
種目は走り幅跳びで、マスターズに出場すれば優勝しています。
真面目にやっていまして、同級生30名くらいで、そのうちの仲の良い9人中2人が日本記録保持者という具合です。
跳躍系は、筑波と順天堂が強く、世界選手権とオリンピックの反省会は筑波大学内でやっていました。
今もちょっとした空き時間に、町中や会議室で筋トレをしています(笑)
――今までのお話のなかで音楽が全然出てこないのですが(笑)、幼少期にピアノとの関わりはあったのでしょうか?
福田氏――正直、音楽にはあまり興味がありませんでした。
ピアノは絶対嫌だと言って、バイオリンを弾いていましたが、結局やめてしまいましたね。
続けていればいずれ必ず感謝するとか、やめたら後悔するなどと言われましたが、その当時は他にやりたいこともたくさんあったので、そういう選択をしました。
承継後の変革への思い
――音楽にご興味がなかったのに、ピアノの事業を継ごうと思われたのはなぜですか?
福田氏――当時は親の会社のこともよく知らなくて、楽譜をアメリカから輸入していたので貿易会社だと思っていたのです。
じゃあ、自分はビーフジャーキーでも輸入したらいいかな?なんて考えていました(笑)
親の方はなんとか事業承継させようと考えたようです。
ピティナは、1985年に文部省所管の公益法人(社団法人)許可を受けて、東音企画から独立し別法人になっていました。
そこで思いついたのは、東音企画をまず承継させて、ピティナの事務代行をする形でコンピューターの導入を進めるというものでした。
今でも変わらず顧客第一主義ですので、東音企画からみて顧客であるピティナが繁栄することが勤めだと信じて、ずっとやってきたのです。
だから、ピティナを伸ばすのは、クライアントとして伸ばしてきた感じですね。
――そこから、社団法人であるピティナも承継されることになりましたね。
福田氏――1990年に東音企画の代表に就任してから12年、ピティナの事務代行を始めて11年後、親が亡くなったことをきっかけに、今までの構造を残したままピティナも承継し、両方の会社の経営をするようになったというわけです。
社団法人なので求心力がとても重要で、創業者の息子だから求心力が得られたというのもあります。
その辺りの事情も含めて、僕以外の承継者はいなかったですね。
社団法人の枠の中でやりたい経営者は、ほとんどいないのではないかと思います。
変化に対応しやすいのは、株式会社です。
社団法人は、個人や株式会社の事業体を繋ぐのに適しているので、ここまで社団法人のまま、伸ばしてきてしまいました。
――今後、福田さんの後を継ぐとしたら、どのような方向にいくのでしょうか。
福田氏――今後、続けていくとしたら、東音企画の子会社みたいなところから始めて、ピティナと違う事業をやっていくというのはあると思います。
ただ、社団法人は合併もできないので、これをどうやって進化させるのかは、難しいところですね。
資本の論理が通用しないので。金銭的な自由度もないんです。
かといって、時代はどんどん流れ周りは変革していくので、昔と同じ枠組みでやっていたら取り残されてしまいます。
今後は、株式会社の事業体が社団を支える仕組みを作っていきたいと思います。
この続きは、中編「システム開発でピアノ業界を変革する」でお届けします。お楽しみに!
※資料は福田氏より提供されたものです。