里山の人々の想いと地域資源をアートで紡ぐ芸術祭20年の挑戦

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国内外のアート・美術を生活空間の中に的確に活かし、全国の各地域との交感を大切にした活動を続ける(株)アートフロントギャラリー。2000年からスタートした3年に1度の「大地の芸術祭 越後妻有アートトリナンナーレ」は新潟越後妻有の里山の大自然すべてを美術館に見立て、地元の人々と協働して創り上げたアートと地域の調和空間が国際的に話題となり2018年には55万人の来場者を動員。経済上昇、移住促進など様々な効果を生んでいます。
全国にも派生した取組に内側から関わり、アートによる地域おこしの先進事例を作った、アートフロントギャラリーの関口正洋さんにアートと地域活性についてお話を伺いました。

金融マンから地域との橋渡し“オーガナイザー”へ

Z-EN編集部――関口さんは、東大医学部からを経て、美術全般に関わるアートフロントギャラリーにご入社されていらっしゃるのですね。異色のご経歴のように思いますが、アートの分野に関わることになったきっかけを教えてください。

関口正洋氏(以下、関口氏)――――実は、それまでアートにはほとんど触れていないんです。
高校時代、美術は選択科目で、僕は音楽をとっていました。
美術って手間がかかるし、なんて思って(笑)
その後、理系の大学を卒業して新卒で入ったのが金融業界でした。

転機が訪れたのは、その金融会社の札幌支店に勤務していた1999年の初め頃のことです。
中・高校からの同級生で腐れ縁だった友人2人のうち1人が、アートディレクターの北川フラム氏(現、アートフロントギャラリー会長)の親戚だったのですが、北川氏が新潟県の地域活性化のための計画「里創プラン」をもとに芸術祭を創るからそのプロジェクトに加わらないかと誘いに来たんです。

アートプロジェクトなんて、皆目見当がつかない話で渋っていたんですが、3日3晩粘られまして(笑)
もう眠くて眠くて、気づけば誘いに乗っていました(笑)。

99年のGWに北川氏に会って、考え方のものさしの違いに面白さを感じ、2か月後の7月には会社に辞表を出して新潟に移っていました。

新潟県十日町市、星峠の棚田(Z-EN撮影)

――すごいお話!トントン拍子にアート業界に進むことになったのですね。

関口氏――それが「アート業界」という感じじゃないんですよね。
当時、代表的な美術専門雑誌「美術手帖」でも読者は1~2万人くらいだったと思います。アート業界は限られた人たちの世界でした。

北川フラム氏のプロジェクトは、新潟の人里離れた山村、しかもその里山の生活の中でアートを表現するという話でしたから、私がやることのうち5%くらいしかアートがなく、残り95%はプロジェクトに関わる人々と対話し組織を作りまとめるオーガナイザーとしての仕事です。

裏方として応援し人を支えようと決めた20代

クリスチャン・ボルタンスキー+ジャン・カルマン「最後の教室」Photo by T.Kuratani
 関口氏が何度も鑑賞する中で、突然見え方が変わった作品。
多くの人々が製作に関わる芸術祭の作品はどれも思い入れがあるという。

――最初はどんな形でスタートしたのですか?

関口氏――最初のミッションは、“スポンサーを探して1億円集めてこい”というものでした。
今だったら「そんなの無理!」って分かるんですけど、当時はまだ20代前半で何も分からない若者でしたから、「やります!」って素直に集めに行くんです(笑)
結局、現金1,000万円と現物わずかしか集められないわけですよ。
プロジェクトの大半は借金で賄うことになり、正直責任を感じましたね。

仕事の内容は、地域の人たちと交流して、アートができる場所を探して確保し、行政に掛け合い、アーティストと調整して、ボランティアをまとめるといったことでした。

でも、突然やってきた外部の人間がすぐにうまくやれるわけがない。
何もかも自分の思い通りにならないんです。
自分の価値観がすべてひっくり返った感じです。
それで、ばっくれました(笑)。

1年間自分探しみたいなことをしたんです。
結果、自分にはやりたい!と心から思えることがないから、裏方がいいのかな、と。
人を応援し支える側の立場になろうと思うことができました。

2003年から新潟に移り住んで、それから2015年まで12年もの間、新潟妻有に居住することになります。

地域での暮らしは”恩を返すこと”に気づかせてくれた学びの場

関口氏(Z-EN編集部撮影)

――12年間も地域に根付かれたんですね!地域の方々と協働する上で、並々ならぬご苦労があったかと思います。越後妻有は関口さんにとってどのような存在ですか?

関口氏――最初に妻有に入るとき、過疎の経済が衰退した村を何とかしてやろうという、言葉は悪いですけれど上から目線で何かできるという思いがありました。

でも、2004年の中越地震という象徴的な出来事を境に、災害の中で人が集まり自然に炊き出しが始まり、お互いを気遣う。
そんな人と人との関わりが、都会にいる時よりよほど豊かだと感じました。

自分がこの地域に何かしてあげるのではなく、むしろこの地域から頂いて何を返せるか?という感覚が芽生えましたね。

自然が厳しいこの土地では自然の力にはだれも抗えない。
人は無力です。
都会では縦のヒエラルキーの関係でも、大きな自然の前ではどのような立場の人も横並びに近い感じになれる

そして、地域で関わる地元の人、アーティスト、ボランティアの方々にはそれぞれ真理みたいなものがあると思っています。
自分にはアートや農業などのバックボーンがないので、地域での存在意義をいつも考えていました。
そういった意味で、この場所は学びの場だという感覚がありますね。

▶アートの世界に身を投じた関口さん。新潟妻有での“越後妻有トリエンナーレ”20年の歩みについて、次のページでお届けします!

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関口正洋
株式会社アートフロントギャラリー

投稿者プロフィール
1974年神奈川県生まれ。
金融会社勤務を経て、1999年にアートフロントギャラリー入社、大地の芸術祭参画。
2003年から越後妻有のマネージャーとして文化施設の企画および運営に携わり、文化・芸術を活かした地域づくり組織NPO法人越後妻有里山協働機構を立ち上げる。
2013年から奥能登国際芸術祭プロジェクトマネージャー。

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