挑戦重ね、「ワイルドサイド」の日本酒を醸す(前編)

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苦境に見舞われた歴史と伝統ある家業を継続するため、なすべきことは何か。多くの老舗承継者が直面する問いでしょうが、明治から続く徳島県の酒蔵で五代目として酒造りに力を入れる三芳菊酒造株式会社の馬宮亮一郎氏もそのお一人だと言います。馬宮氏は、承継時に多大な負債を負い、長く苦しい経営状況が続くなかで老舗を存続されてきたからです。しかし、確固たるポリシーを心に刻み、業界の古い考えに捕らわれず、小さな改善を積み重ねて知名度を全国区に広げ、確実にファンを増やしてきました。その姿勢を支えたもの、行った改革などについて、詳しくお話しくださいました。

日本酒業界「冬の時代」に酒蔵を承継

画像はHPより

Z-EN――三芳菊酒造では、一度飲んだら忘れられない独特な味わい、ポップなラベルで非常に印象に残るお酒を次々に造っていらっしゃいますね。まずは、酒蔵を継ぐまでの経緯を教えてください。

馬宮亮一郎氏(以下、馬宮氏)――高校までずっと徳島県三好市で育ち、大学は東京の立教大学に進みました。実家は、明治22年創業の酒蔵ですが、当時は日本酒業界も沈んでいて継ぐ気はまったくなかったです。

音楽が好きで、学生時代はレコード屋でバイトしつつバンド活動をしていました。
卒業後も2年ほどレコード屋で働いていましたが、ある日突然、母から、「酒蔵の経営がかなり厳しく、先が見えない。このままだと、いつ辞めることになるか分からない」と、電話がかかってきました。
でも、母の本音としては「蔵を続けたい」というのです。

ちょうど私自身も、音楽業界の実情を知るほどに夢がなくなり、東京での生活にも疲れてきた時期だったので、25歳でUターンしました。

帰郷し、五代目として家業を継いでから分かったのですが、数億円の借金があり、土地屋敷が金融機関の担保に取られている状況でした。

難航した東京での販路開拓

――大好きな音楽の道を手放して家業を継いだ途端、一気に大きなものを抱え込んだのですね。その苦境に、どのように向き合われましたか。

画像はHPより

馬宮氏――父の体調が思わしくなかったこともあり、当時、蔵に来てくれていた杜氏さんに酒造りを教わりました。
でも、自分が杜氏となって2000年から始めた酒造りは、困難を極めるものでした。

酒造りをする10月から6月の間は、朝5時から18時頃まで仕込みやら瓶詰め、ラベル作り、営業・配達と仕事が続き、夜も2時間おきくらいに麹の仕事があります。
当初は妻と2人での作業が多かったのですが、娘たちが小学校高学年になった頃から手伝ってくれるようになったので、とても助かりました。

一人で酒を造っていたところに家内と出会い、3人の娘にも恵まれ、常に家族の応援があったのでなんとか続けてこられました。

当時、日本酒業界は厳しい冬の時代で、多くの酒蔵が廃業していました。

うちも例外ではなく、資金繰りに苦しむなか、やっとの思いで自分の酒を造っていましたが、全量を徳島県内で販売していたので状況はより一層苦しくなるばかり。
徳島県全体でも人口が少なく、日本酒の消費量も少ないのですが、地元はさらに過疎の町です。

そこで、何とか県外で販路を開拓したくて、まったくツテも当ても無かったのですが、東京に住む妹の部屋に泊まらせてもらいながらお酒を持って販売店を回りました。

1週間以上もお店を回ったこともありましたが、売れ行きは芳しくなく、ほとんど成果がないこともありました。

▶日本酒の販売先や酒造りで試行錯誤を繰り返した馬宮さんは、数々の試練を乗り越え、独自の道を切り開いていきます!次のページでは、その挑戦の道筋をご紹介します!

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馬宮亮一郎
三芳菊酒造株式会社 代表取締役・杜氏

投稿者プロフィール
徳島県三好市生まれ。立教大学卒業後、レコード店勤務を経て、実家の三芳菊酒造(三好市)を継承。
2000年から、杜氏として酒造りを行う。
2008年から、徳島県立三好高校の生徒たちに酒造りを指導。
2021年、音響機器メーカー「オンキョー」と加振酒プロジェクトを実施。
酒蔵でのライブや、「三芳菊を飲む女子会」といったイベント、各地での日本酒会などを積極的に展開中。

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