エリアに面白みのある産業クラスターを産む(後編)
- 2021/3/1
- インタビュー
エリア価値を向上させリノベーションまちづくり事業をプロデュースする株式会社アフタヌーンソサエティの清水義次さん。前回のインタビュー記事「敷地に価値なし、エリアに価値あり」では、清水さんがこれまで携われてきたまちづくり事業と、そこに至るきっかけなどをお話しいただきました。後半では、SOHOまちづくり構想や家守など、まちを再生するための具体的な方法と課題について伺っています。
目次
SOHOまちづくり構想
Z-EN――前回は、表参道のブランド誘致を実現したまちづくりのご経験をお話しいただきました。その後も次々と“まちづくり”をされていらっしゃいますね!
清水義次氏(以下、清水氏)――そうですね。
“まちづくり”をする中で、いろいろと気づきもありました。
きっかけとなったのは、2003年3月に千代田区が提言した「千代田SOHOまちづくり構想」です。
民間のビルの空室を有効活用
――ちょうど、六本木ヒルズが建ち、都心部のビル供給が過剰になる「2003年問題」が懸念されていた頃ですね。
清水氏――供給が増えると空きビルも増え、エリアの価値も下がる。
ですから、民間所有のビルの空室で有効活用できることはないか?とみんなで考えました。
そんな中、神田にある当時築46年の元蓄音機メーカーの本社屋2階105坪を借り受け、千代田区の東部地区に多かった繊維問屋などの産業資源を活かそうと、1,000万円投資してクリエイティブな人たちを呼び込む拠点を作るという計画が持ち上がりました。
神田をクリエイターのまちに再生
――「今ある資産」をまさに生かしたリノベーションだったのですね。
清水氏――ところが、いざお金を出す段階になると、みんなどんどん離れて行ってしまったんです。
当時私はボランティアの立場で入っていましたが、これはやれると確信していたので、運営を引き受けることにしました。
105坪の空きフロアーは、スケルトンにして「REN-BASE UK01」という名の、クリエイターのSOHO Villageと会所(まちづくりの寄合所)にしました。
2003年の神田祭の後、東神田でまちづくりに熱心なタオル問屋の社長さんと知り合い、エリア一体の空きビルを使ってアートイベントを一緒にやることになりました。
セントラルEAST東京(CET)という名称で、初回は11月下旬に42か所のスペースで10日間開催し、テンポラリーなギャラリー街が生まれたのです。
道路を閉鎖して路上パーティを行い資金源にし、最終日は薬研堀不動院前の路上に800人ほどを動員しました。
居住者はお年寄りばかりの町です。
こんなに人が集まったのは30年ぶりだよと当時の町内会長は泣いていましたね。
アートイベントをつくり集客するのは難しいから、当時表参道・青山エリアで盛り上がっていたTokyo Designers BlockのセントラルEAST版として褌を借りて集客していきました。
衰退一途の繊維問屋街で9年間CETを開催することにより、このエリアをクリエイターの町に生まれ変わらせていったんです。
産業クラスターの自発的創生
――イベントへの動員人数も毎年のように増えていったそうですね。
清水氏――そうですね。
CETは動員数も増え、3年目以降はコンテンポラリーギャラリーもどんどんできました。
ビルの空室にクリエイターが集まり、それに引き寄せられてお洒落なカフェや雑貨店もできる。
表参道に1992年~95年頃起きたことと同じような現象が起こってきたんです。
こうしたクリエイティブな都市型産業集積が民間だけで生まれてきました。
持続させるための新たな課題と官民の連携
ところが、年月の経過とともに段々と“まち”の成長の仕方は変わっていくものなのですね。
当時は純粋に、衰退していく繊維街を新しい違う形でクリエイティブな“まち”に変えたいという一つの目的で進んでいたんですが、3~4年と時間が経ってくると段々と変わっていく。
当初の目的を知らない人たちがその場所でただお金儲けをしたいと集まってきました。
――“まち”に面白みがなくなったということでしょうか?
清水氏――まちは活性化するけれど、どんなエリアになっていくかという方向性が次第に分からなくなってしまいました。
まちづくりは民間の力だけでは限界があると痛感しました。
行政とも一緒にやっていかなければダメじゃないかと。
行政の役割は、まちを変える方向性を指し示していくことだと思います。
新しいまちづくりは、行政と民間が連携してやっていく必要があると感じました。
家守(やもり)という仕組み
――“まち”の目的や想いを持続するのは難しいのですね。
清水氏――千代田区では、その後の“リノベーションまちづくり”のポイントとなる、「現代版家守(やもり)」の仕組みを練り上げることができました。
「家守」とは、江戸時代に地域をおさめた大家さんのこと。
不在地主の所有する土地建物とまちの管理を兼ねていた、民間の職業で、役人と呼ばれていました。
天保の頃の江戸の町は町人だけで60万人。
武士と寺社の人口を合わせて100万人です。
が、当時の行政機能である南町奉行所・北町奉行所には、合わせて300人程度しかお役人がいなかった。
町人人口約2,000人に1人程度の公務員しかおらず、いかに少人数でまとめていたかが分かります。
そこで活躍したのが2万人余りいた「家守」だったんです。
この家守制度から着想を得て「家守」の職能を現代に活かすことを想いついたわけです。
家守がまちの差配人として不動産オーナーと一緒に“まち”を盛り上げるプロジェクトを作り、そこに参加してくる事業オーナーを繋ぐ役割を家守に担わせてはどうか?と。
行政と連携しながら、民間主導型でリノベーションまちづくりが動き出すやり方を考えました。
▶家守という仕組みでまちを再生させる手法は、まちの課題を解決しながら新たなまちづくりを実現していく素晴らしい取り組みですね。次のページでは、行政と民間の連携がポイントとなる清水さん主導のプロジェクトについてお届けします!